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近江の不思議 !?


 いけないいけない、コラムの更新が途切れがちになってきました。周囲からお叱りの声、それをいただけるのも愛情のうち、などと甘えていると、ときはもう3月半ば ! われながら猛反省です。くしゅん。
 2月はなぜか、超多忙。昨年末からスタートしている町家ギャラリー「空・鍵屋」の企画・管理にまだ慣れてないせいか、加えて『それは京都ではじまった』をCS京都チャンネルで番組化してくださるという話がもちあがり、その準備やら収録やら。後半は、わたしがいま参加している京都市の景観審議会のシンポジウムと分科会、それに前後して本のお話をさせていただくことが2回ばかり。いやあ、書けば書くほどいい訳めいてきます。これくらいにします。
 じつは「近江の不思議」を書きはじめております! これは滋賀銀行の歴史あるPR誌『湖』の連載企画で、今年新年号からスタート。ですから第1回の原稿を書いたのは、もう昨秋のこと。第1回は京都でも好評を博した「地名の不思議」シリーズでした。
  米原は「まいばら」か「まいはら」か?
  沖島は「おきのしま」か「おきしま」か?
  正しい読み方、ご存じですか?
 というような内容です。で、これは季刊誌ですから、現在第2回までを書いたところ。春号がまもなく出ると思います。滋賀銀行『湖』に連載させていただけるなんて、非常に光栄なことです。このPR誌、いまとなってはバブル崩壊後も継続発行できている数少ない良質誌。『湖』は滋賀銀行各支店窓口で無料配布されていますので、ぜひぜひご覧ください。

(2006年  3月16日記


ゆく年くる年 2005ー2006


 坂田藤十郎さんの顔見世に行ってきました。千秋楽前日の昼の部。急に思い立って、チケットを入手したのがその2日前。よく買えたね、といわれましたが、奇跡的に残っていたんです。
 なぜ急に思い立ったかといえば、藤十郎さんの鼎談原稿をまとめるという幸運をいただいたたことがきっかけです。インタビューテープを通し、生の藤十郎さんのお声を繰り返し聞いているうちに、歴史に残る平成の一場面を目撃しないでどうする、いまなら間に合う、とチケット売り場に走っていました。
 このたびの顔見世は、なんせ231年ぶりという坂田藤十郎の復活です。上方歌舞伎の再興です。それも京都が初舞台。だから南座は連日の大賑わい、なにを今さら、といわれそうですが、わたしはインタビューテープを聴いて、この点に強く惹かれたんです。つまり、今回の襲名披露は代々の家を継ぐのでもない、師匠を継ぐのでもない、縁もゆかりもないあかの他人を襲名するという歌舞伎界でも初のこと。藤十郎さんいわく「絶対、京都からはじめたかった」とは、『それは京都ではじまった』の一項目に加えるべきだったとおおいに悔やみました。
 「そのひとの芸に憧れ、憧れ尽くして、そのひとに生まれ変わる」。これって凄いことです。役者魂です。怖ろしいほどです。人生を二度生きるのですから。それを淡々と語る藤十郎さん。お声はやわらかいけれど、でも上方歌舞伎再興に秘める想いが伝わってきて、平成の藤十郎の初公演は泣いても笑ってもこれっきり、もう二度と見ることのできない初公演なら、一等席でも惜しくない、と思ってしまったのでした。この藤十郎さんの鼎談原稿は、祇園商店街のPR誌『祇園おこしやす』の次号に掲載される予定です。

(2005年  12月28日記


それは日本で初めて、京都に生まれたのでした


 わたしにとって4冊目となる新刊本が、書店に並びはじめました。タイトルは『それは京都ではじまった』。
 京都の本屋さんでは「平積みになってたよ!」と教えてくれるのですが(出版社の営業さんのおかげです)、じつはまだ書店をのぞいておりません。すぐには行きづらいんですよね。はずかし怖しの心境というか。
 今回の本は、京都にまつわる事物起源本です。
「電車や小学校だけじゃない、近代ボウリングも、ビアホールも。京都が発祥なのだ」と帯のコピーにあるとおり、京都からはじまった日本初のモノやコトを68編、追いかけました。今回もやっぱり、へぇ〜といっていただけると思います。
「またタイヘンなことを」とか「ようやるわぁ」と、ここまできたら、ほとんどあきれかえられております。そうなんです。なんでこんなことになったのか。
 ただ、編集者いわく、京都の事物起源本は、これまでなかったのだそうです。これは意外でした。京都に関する本が、これだけたくさん出版されているにもかかわらず「類似本がない」! このひと言で、わたしは泥沼にずぶずぶと。思えば前回、京都発祥の日本語の語源を訪ねながら、すでに事物の起源に至っていたともいえるわけです。ですから、流れとしては、当然の成り行きというか。
 今回の内容で、わたし自身の一押しは「ミネラルウォーター」と「近代ボウリング」かな。あと「熱気球」「関西フォーク」の1960年代後半バージョンも。  
 そうそう、この本とまったく同時に書店に並んだ『入門・おとなの京都ドリル』(地球の歩き方編集室・ダイヤモンド社)が目下、全国で大健闘中です。わたし、この本の設問委員を仰せつかったので、編集スタッフのご苦労が痛いほどわかります。報われてよかった、という気持ちと、願わくば、この波に拙著も引っ張っていただきますように。

(2005年  10月6日記


2005年、夏


 やっとやっとやっと、原稿から解放されました。初校ゲラも返し、これでわたしの仕事は96%終了。第4作目は<京都にはじまった日本初>がテーマです。9月初・中旬ころには光村推古書院から出版される予定。次には、詳しく新刊予告をできると思いますので、少し待ってください。
 今回の本を書き上げるのに、1年以上かかったことになります。思えば1年前の夏に、すでに取材をしていました。これまでの本は、3、4ヵ月で仕上げていたので、長く抱えていたぶん、解放された喜びは大きい。といっても途中、本業に舞い戻るとなかなか切り替えが利かず、執筆の大詰めはこの6月のひと月間でしょうか。6月はビッシリやりました。
 で、7月は、3回もお喋りする場をもたせてもらいました。人前でお話しするということは、わたしの場合、大きな決断と勇気がいるんです。でも、今回はこの解放感と多少の好奇心に駆られて、貴重な経験をさせていただきました。
 7月9日土曜日は、知恩院おてつぎ文化講座(佛教大学四条センター)。翌週16日は祇園祭宵山にでかけて、京都室町・呉服問屋さんのお客さまご招待の席で。さいごの26日は、大阪梅田の社団法人総合デザイナー協会(DAS)のセミナーで。ちょうど4作目の初校原稿に手を入れながら、この3回の会を通して『京都の不思議』以来の体験をふりかえることになりました。7月はめまぐるしかったけれど、少し遠ざかりかかっていた『京都の不思議』を新鮮な気分で思い起こし、これまでのことを冷静にみつめるいい機会になりました。
 さて8月の声を聞くやいなや、海外から友人がバカンスで入洛。ひと月の祇園祭が終わって、ちょいと静かになった京都です。

(2005年 8月3日記


深夜のメール


 コラムが滞りがちになってきました。お見通しでしょうか。次作の原稿の締め切りが、近づいてきた証拠です。せっぱ詰まってきております。
 だんだん夜型生活いちじるしくなって、昨晩も、本業の仕事の企画書とメールを深夜に送付。わたしとしては、深夜のなかでも早いうちの時間帯だったんですが、さっそくきょう、打ち合わせのその席で話が「深夜のメール」におよびました。数人の人がいたんですが、出てくる出てくる、メールにまつわるあれこれ話。おおいに盛り上がりました。メールというのは孤独な個人作業だから、日々の思いがどっと出てくるんですね。
 FAXと違って、メールなら、送信の時間を気にしません。もちろん表示がでるけれど、それさえ覚悟のうえならば。ところが、昨夜わたしがメールを送った相手は、こういうのです。家に帰って、メールの返事を書いて、さあ寝よう、風呂に入って、では寝る前にメールチェックを、と思ったらメール。もう遅いし、あすにしようと思いつつ、ついつい読んでしまう。読みはじめたら、だんだん目がさえてきて、返事まで書いてしまう。これをメールの悪循環という、と。
 さいごのメールチェックをしなかったらいいのに、ともいえますが、寝る前に最後のチェックを、というのは自分でもやってますから、あまりいえません。いつものクリエイター仲間の、24時間メール態勢を、つい外にやってしまってヒンシュクをかったのでした。反省。

(2005年 6月10日記


悲しい4月


 JR福知山線の列車事故で、関西には沈痛な空気が流れています。京都は、尼崎の事故現場からは距離があるけれど、田辺の同志社前行きの快速電車だったので、同志社大学の今出川キャンパスのほうも、心なしか沈んで見えます。大学の前を通りかかったら「チャペルアワーで追悼」のスケジュールが出ていました。
 新学期という気分にはすっかり縁遠くなってしまったわたしですが、それぞれの新入生にとっては、いまこの時期は、不安と、期待と、とまどいと、そして、そろそろ失望も入り交じった、毎日がめくるめく心中複雑な日々でしょう。でも未踏の世界のはじまりというのは、どうであれ、いいもんです。懐かしくなります。だからこそ、新入生が4月のうちに通学中の、しかも想像を絶するような脱線事故、とはいたたまれないものがあります。
 春というのは、色とりどりの花が咲き乱れ、陽気もよくて、うららかではありますが、印象はどうもスカッと明るくないですね。日本特有、いや怨霊こもる京の都ゆえでしょうか。日本人は昔から、満開の桜の下に不穏な霊気を感じてきたのも、よくわかる気がします。待ちわびて春。つぎつぎと花を咲かせる花の精があまりにも強烈で、人間の精気が吸い取られるような、そんなイメージなんでしょうかねえ。
 まあ、季節が明るければ明るいほどに、その明るさにひそむ陰に着目する、というのは、日本人固有の感性かもしれません。深みをのぞくというか、奥行きを大切にするというか。そこに物語が生まれます。
 今週は、JRの事故の話題一色で、なんだか暗くなってしまいました。ゴールデンウィークに入るというのに。ことしは大型連休です。あすあたりから、京都の街も混みそう。
 先日、桂離宮を(はじめて!)見学しました。フランスからのお客さまを案内するという機会に便乗して、やっと行くことができました。以前は、直前申し込みの場合、外国人のみ許可が出て、日本人のわたしは取り残されていたんですが、規約が変わったのかどうか、今回はわたしも一緒に見学できました。写真は4月20日、小雨の桂離宮です。  

(2005年 4月28日


ことし、如月の望月は


 前回、ここに旧暦の話を書いたからか、掲示板に西行が詠んだ如月の望月の話題をいただきました。
    願はくは 花の下にて春死なむ その如月の望月の頃
 旧暦を気にしだすと、どうしても気になるのが、この歌です。3月が来るたび、毎年毎年、ことしの望月は、と調べるわけです。で、ことしは3月26日が、旧暦如月の望月。う〜ん、あたりそうですね。ちなみにいま、開花予想は3月30日か31日ころでしょうか。ことしは寒さのピークが遅かったから、例年より少し遅めの予想とか。桜はいま、如月の満月に向かって開花を準備しているのでしょう。26日の夜の満月のエネルギーをいただいて、つぼみがほころび、開花に向かう気配?
 でも満月というと、このところ地震も心配です。先日は九州、福岡県で地震被害。わたしはちょうどその頃、仕事で鎌倉時代の元寇の歴史を調べていたのです。元寇で奮戦した河野通有のお話です。玄界湾にはいまも、元寇に際して日本側が築いた防塁跡がまだ一部残っていて、その写真を整理したりしているところへ、玄海島被害のニュース。驚きました。わたしはまだ見たことがない、玄海灘あたりの海が急にクローズアップされたのですから。このときの地震では、韓国も揺れたそうで、韓国での地震はめずらしいのだそうです。日本列島、いや日本だけではないけれど、ほんとにいたる場所が揺れはじめています。
 地球が生き物だということを、つくづく感じます。満開の桜のもとで、何かしら心が不穏になるのも、花の生命、そのエネルギーに圧倒されるせいかもしれません。
   花の命はみじかくて 苦しきことのみ多かりき  これは林芙美子でしたっけ。
(掲示板は、下の「情報お寄せ箱」をクリックしてください。このページを長らく見ながら、掲示板があること知らなかった、なんて先日言われてしまいました)。  

(2005年 3月24日


NHKと旧正月


 ことしはじめてのコラムが、なんともう2月も半ば!
 周囲からも「ナニをさぼってるの」との声しきり。あいすみませぬ。遅ればせながら、2005年もよろしくお願いいたします。
 半世紀以上生きてきて、はじめてことし、海外で年を越しました。どうも年越しの実感が希薄でいけません。シャンパンで新年を祝ったはずなのですが、やっぱりゴ〜〜ンと除夜の鐘を聴いて、煩悩を振り払わなかったせいかな。
 しかし、今ごろお正月の話もないですね。そういえば、2月11日の夜、NHKで紅白歌合戦の再放送をしていて、興ざめでした。あれはやっぱり、大みそかでなければ。わたしはじつは、紅白はナポリのホテルのTVで見てしまったのです。それも時差をちゃんと考慮に入れた、現地時間の大みそか夜。欧米各国の主要放送と並んで、NHK国際放送がホテルのテレビに配信されていたのでした。それもチャンネルメニューのスペルが間違っていて,BBCなどと並んで、NEKの文字。もしやとチャンネルを合わせると、紅白が画面から飛び出してきてびっくり.NEK、じゃなかった,NHK国際放送には、コマーシャルがあるのにも二度びっくり。紅白の途中で、JALのTVコマーシャル、しっかりこの目で見てしまいました。
 ところで、旧正月は、ことしは遅くて2月9日。先週が旧正月を祝う「春節祭」で、にぎわったようです。旧暦の「お年越し」といわれる立春より前、1月下旬くらいが旧正月に当たることが多いように思うのですが、ことしのように、立春が先に来て、それから旧暦のお正月、という年もあるわけです。だいたい旧正月ころが寒さのピークとなるそうで、ことしのように旧正月が遅いと、寒さのピークもそれに連れて遅くなる。ここに来て冷え込み厳しく、日本列島に寒波到来。それは旧暦が証明してるんですよ、と、このところ旧暦派が意気揚々、元気です。  

(2005年 2月14日記)


年末雑感


 ことし一年、早かったような、遅かったような。2004年はなんともつかみどころがないというか、よくわからない年でした。いろんなことが次から次へと、山盛り襲ってきたような、併せて戦争やら、オリンピックやら、台風、地震、火山の噴火。でも振り返ると、電車の窓から見る景色のように、あれやこれやとめまぐるしく過ぎ去って、いま2004年の終着駅に着こうとしています。
 このめまぐるしさを、何とかしたい、と切実に思い始めました。
 年末年始、ことしは機会を得て、日本脱出です。
 
 というわけで、一年のしめくくりのごあいさつ。
 写真は、年の瀬も迫った冬のとある日、知恩院三門のうえからの眺めです。
 皆さま、よい年をお迎えください。  

(2004年 12月22日記)


時雨れて、師走


 ああ、ああ、もう師走です。ことしは暖かいから、ちっとも師走の気分になれないけれど、しかし暦は一日一日と進むのです。今年もあとわずか。で、ここから年の瀬までが、また一気に進むんですよね。
 紅葉もいよいよ最後ですが、きょうのように晴れて澄み渡った日など、きれいだなあ、と思いますね。ことしの紅葉はもひとつだったといわれるとおり、木々がいっせいに色を変えることが少なかったように思います。こちらの木はすっかり紅葉しても、その向こうではまだ緑色をちらほら残している、といった具合。それでも、黄金色の葉がきらきらと舞い散る、イチョウは壮観です。自然のライブならではの、透明感のある色。このごろのわたしは、真っ赤に染まった紅葉よりも、さくらもみじの風情がよかったり、イチョウの黄色が好きだったりして、好みも変わってくるものです。
 ことしは「京都の不思議」紅葉ツアーのご案内を、初めて体験しました。このコーナーでご紹介したことのある京都岡崎・洛陽荘に、今回は東海地方からのお客さまをお迎えして、洛陽荘から永観堂、南禅寺へと散策。紅葉まっただ中の11月下旬だっただけに、名所中の名所である永観堂などはそれはすごい人出で、紅葉はたしかにすばらしいのですが、ふだんの静かな永観堂のよさを味わっていただけないのは、ちょっと心残りではありました。「京都の不思議」ツアーは、京都の素顔がのぞけるオフシーズンのほうがふさわしいようです。紅葉は紅葉、でももういちど、静かな季節にもお出かけください、と申し上げたくなりました。
 今回のツアーでは、南禅寺塔頭の慈氏院「だるま堂」に皆さまをご案内しました。現在、慈氏院のご住職は岐阜県多治見の有名な禅刹・永保寺のご住職が兼務しておられるのですが、ご住職がちょうど京都に来ておられて、同じ東海地方の皆さまをわざわざお出迎えしてくださり、これには一行、大感激でした。
 昨晩は、季節はずれの師走台風が激しい雨を降らせました。きょうは一変して、晴れては時雨、時雨れては晴れ、の日曜日。驟雨は冬へのプレリュードです。  

(2004年 12月5日記)


佐渡裕とカツカレー


 さっきテレビで、すごい話に出会いました。う〜ん、いい話。忘れないうちに、ここに書いておきますね。NHKの「英語でしゃべらナイト」という番組に、京都出身の若手指揮者、佐渡裕さんが出ておられたんです。佐渡裕さんといえば、バーンスタインの弟子。佐渡さんがまだ英語を充分にしゃべれない初期のころに(これは英語の番組ですから)、師バーンスタインからどのような教えを受けたか。そのエピソードがどれも魅力的で、才能に満ち満ちた師弟の間に飛び散る熱い火花を垣間見た気がしました。
 若いころの佐渡さんを、自家用ジェット機で同伴させ、機内ではキャビアやシャンパンの贅沢を「見せびらかし」つつ、佐渡さんに人生を語らせ、自分の歩んできた決して平坦でなかった音楽の道を語ったバーンスタイン。
 佐渡さんが、世界の若手指揮者50人からただ一人選ばれてデビューを飾ることになったとき、食事会で隅っこに座る佐渡さんを探し出し「英語はうまくなったか」「(指揮するR・シュトラウスについて、だったと思うんだけど)スピーチしろ」とバーンスタイン。(といっても、佐渡さんはうまくしゃべれない。そんなことは知ってるはず、とムッとする弟子)。登竜門試験に落選した他のメンバーの前で、師が下した愛のムチ。その夜から佐渡さんの猛勉強が始まり、それにつれての愛情あふれる指揮指導、そして大成功。「何もかも、すべて見通されてましたね。凄い人です」と佐渡さん。
 あるときは、オーケストラの練習中に能について、バーンスタインが30分間語り続けた。そして能に漂う気這い、そこに秘められたエナジー、コンセントレーション、パワーについてふれ「これは日本人にしかない独特の感性だ。佐渡にはそれが表現できる」。指揮者佐渡裕はこうして、西洋音楽と日本人の感性の融合をめざすようになったのだそうです。
「地球の反対側に生まれた僕でさえ、西洋音楽を母乳のようにして育った、それくらい浸透している西洋音楽に、日本人の感性を吹き込むことで新しい演奏が生まれる。僕がめざすのは、音楽のカツカレー」
 日本人のアイデンティティを、西洋人であるバーンスタインに教えられた格好です。でも気づかせてくれたのが西洋の人であろうが、東洋の人であろうが、そんなことは関係ない。偉大な人が気づかせてくれる、ただそれだけのことだと思います。佐渡裕さんから目が離せなくなりました。  

(2004年 10月19日記)


『京都の不思議』第3刷が出ました!


 『京都の不思議』がなんと、3刷りまでいってしまいました。初版が出て1年9ヵ月。そろそろ消えてしまってもおかしくないのに、出版界の荒波をかいくぐって、よくもけなげに重々版に至ったものです。「第3刷ができあがりました」と出版社から連絡をいただいたのが、秋分の日の前。 わたしにとってははじめての本だっただけに、周囲の友人たち、仕事仲間の皆々さま方に支えられ、そして何より出版社のおかげの3刷りです。本当に本当に感謝です。
 それにしても、いつまでも暑いですねえ。真夏日の観測史上最多記録を各地で達成してるとか。「暑さ寒さも彼岸まで」ということばは、これでは通用しそうにありません。ことばというもの、こうして死語になっていくのですね。この夏を体験したわたしたちは、歴史の生き証人です。
 暑いだけじゃなくって、台風も威力を増しています。関西一円では、経験したことのない揺れのなが〜い地震もありました。前回ここに書いたとおり、「降ればどしゃ降り」のひどい豪雨が、とうとう東京にも達した模様です。浅間山が噴火しました。日本だけじゃない、アメリカやハイチでは、ひどいハリケーン。いったい地球はどうなるんだろう。
 こうした気象の変化は、じつはわたしたちが経験したことがないだけで、地球の長い寿命のなかでは、これまでにも繰り返されてきたことなのだろうか、それとも、まったく新しい変化が起きているのか、誰か教えてほし〜い、という思いです。テレビであれだけいろんなこといってるんだから、こういうことも喋ってよね。

(2004年 9月24日記)


野分去りて

  アテネオリンピックも、終わってしまいました。京都では、大文字の送り火が終わり、地蔵盆が終わり、そしてオリンピックまで終わってしまって、いよいよことしの夏ともお別れです。
 このごろは夜更けると、もうすっかり風が涼しいですね。つぎからつぎへと台風がやってきて、そのたびに京都ではめずらしい突風が吹き、雨が降れば豪雨のよう。先日、ちょうど猛烈な夕立のなか、東京からの知人を迎えたのですが、「いやあ京都の雨って、すごい降り方をしますね。いつもこんな降り方なんですか」と驚かれました。
 春雨じゃ、濡れていこう、と月形半平太が言うとおり、傘もいらないしとしと雨が、京都の雨の特徴だったはずなのに。それを東京在住の金田一晴彦先生(今年お亡くなりになりました)は、東京では見られない、京都ならではの風情ある雨、と称されたはずだったのに。
「東京は、まだですか? じゃあ、まもなくですね。いまごろ中部あたりを移動中かもしれません」と、思わず答えてしまいました。まもなく東京にも、降ればどしゃ降りの亜熱帯スコールが到着するのではないでしょうか。
 気象現象もこのように、長いスパンで見れば移り変わってきたんだと実感する日々です。長いこと生きていると、はじめてわかること、知ることが、これからいろいろ出てくるんでしょうね。うれしいような、悲しいような。
 あ、それから、先週日曜の京都新聞書評欄に「京都語源案内」が掲載されました。この前は、信濃毎日にも載りました。よく見ると同じ内容、配信記事なんです。地方紙というのはそういうしくみになっているんですね。はじめて知りました。

(2004年 8月31日記)


平安の羅城門は、いまの駅ビル

 きょう、烏丸丸太町から御池方面に車で向かっていると、一直線に伸びる烏丸通のその先に、そびえ立つ屏風がいつになくクッキリと見えて驚きました。まっすぐな都大路が突き当たる屏風、あるいは砦のようなゲートが、手の届くようにそこに見える。いつもなら、御池あたりからだと、もっと薄ぼんやりとしか見えない砦が、えらくものものしく立ちふさがっているのです。視界のその先の見え方が新鮮で、一瞬アレッと思って、すぐに気づきました。京都駅の駅ビルが、このように見えるんですよね。烏丸御池の北側あたりからでさえ。台風がきているせいで、いつになく空気が澄んでいたのでしょうか。思わず周囲を見渡したけれど、蒸し暑い夏の夕暮れ時、それほど空気に透明感があるようにも思えない。台風の影響を受けた風が朝から吹き続けているので、排気ガスが吹き飛ばされたせい? 
 本当は、これくらい見渡せるものなんだなあ、と感心してしまいました。平安京造営当時、南の端の羅城門から北を望めば、一直線に伸びる広大な朱雀大路の、4キロ近い彼方に、朱雀門の緑の瓦が燦然と輝いていたという。いまでいえば、九条通から二条通を眺めるわけですから、きょう遭遇した見晴らしとほぼ等距離です。そうか、昔だから見えたわけではなくて、いまだって、ちゃんとこのように見える日があるわけです。
 平安の羅城門は、いまの駅ビル。土用の変速迷走台風のおかげで、思いがけない発見をした夏の夕暮れでした。 
  

(2004年 7月30日記)


ことしの祇園祭は、悪しゅう候山にご注目

 一カ月以上も、コラムを更新しないままになってしまいました。またまたご心配いただいていたら、どうもすいません。わたしは元気です。なぜだろうと思うに、出版の次作の準備が始まったからかも。別段意識はしていなかったのですが、こうしてみると、やっぱりそちらに気が行っていたのかなあ。
 あっというまに7月。京都は祇園祭の月。ことしは浄妙山のチマキを、浄妙山前理事長の松村さんがわざわざ事務所に届けてくださいました。暑い中をありがとうございます。感激でした。もう一週間以上も前のことなんです。ご挨拶と、チマキと、由緒書きと、鈴木松年画の浄妙山の団扇とが一揃いになって届けられると、ああ祇園祭の準備が進んでいるんだなあと実感します。真新しいチマキは、さっそく事務所の玄関に飾りました。
 6月に、浄妙山前理事長松村さんのお宅を仕事で取材させていただく機会があったんです。昨年の祇園祭中、スタッフが松村家の屏風飾りに出会って以来、一年を待っての取材でした。松村さんのお宅は、さながら浄妙山資料館。これまで浄妙山をよく知らなかったわたしも、松村さんの楽しいお話に引き込まれ、浄妙山のファンになりそうです。
 浄妙山は、平家物語「宇治川の合戦」の一場面。三井寺の僧兵、筒井浄妙が飛び交う矢をものともせず、橋桁を渡って一番乗りしようとするそのとき、「悪しゅう候、御免あれ」と一来法師が筒井浄妙の頭上で宙返りし、先を越す瞬間を描いた山です。だから浄妙山では、一来法師が楔ひとつで宙に浮いているのです。たしかにこれは奇想天外、大胆かつ斬新な構図です。いや、それにもまして、わたしが気に入ったのは「悪しゅう候、御免あれ」のフレーズから、浄妙山はかつて「悪しゅう候山」と呼ばれていたという事実。なんだか、いいじゃあありませんか。
 というわけで、ことしの祇園祭。浄妙山はわたしのなかでは、すっかり「悪しゅう候山」になってしまっているのでした。 
  

(2004年 7月4日記)


東京「月心居」のこと

 先日、仕事の打ち合わせがあって東京で一泊。友人と食事に出かけました。何も知らされず、東京の友人に連れて行かれたところが神宮前の「月心居」。坂道を少し上がってお店に入るとき、京都の、いや正確には大津の「月心寺」と名前が似てるな、とは思ったんです。向付けに、白く美しい胡麻豆腐が出てきたとき、気づくべきでした。
 にもかかわらず、わたしたちは初対面の知人と挨拶したり、京都のことを話したりしてしまい……東京の「月心居」のこと、京都に帰ってから周囲の人に聞くと、知ってる人がけっこう多い。以前、テレビ「情熱大陸」で番組になったのが鮮烈だったそうで、「よく予約できたね」と口々に。何も知らないわたしたちは、途中から精進料理のことをご主人と話すうちに、ご主人の口から「月心寺で修行しました」と聞いて「えーっ」となったのでした。
 大津の「月心寺」は、数年前に取材させていただきました。いやそれよりもっと前に、若くして亡くなられたK氏のお葬式が行われ、それは彼にふさわしい場所として庵主様にお願いしたもので、そのときの印象がわたしには強いのです。その月心寺で修行された東京「月心居」主人、その人こそ棚橋俊夫氏。いま「精進料理界の鬼才」と呼ばれる棚橋氏のお料理を、わたしたちは目の前でいただいているのでした。
 話は弾みました。NHK朝の連ドラ「ほんまもん」のモデルは、実は棚橋氏だということ、撮影中は店を閉めて料理監修に専念されたこと、米国での精進料理披露に続いて、次はパリかロンドンでという夢を持っておられること。そしてさいごに吉田桂二氏設計による月心居の室内まで案内いただき、お店をあとにしました。神宮前の坂道で、本に出ているとおりの律儀なお見送りをいただいたのはもちろんのこと。東京と京都がひとつになったような、ふしぎな夜でした。 
  

(2004年 5月24日記)


『京都語源案内』という本、その二

 本が刊行されて、反応がぼちぼち現れはじめました。先週月曜日の朝、朝日放送ラジオ「道上洋三のおはようパーソナリティ」で、この本のことが取り上げられました。事前に出版社に電話が入り、わたしも連絡を受けていたのでドギマギしながら聴いていたのですが、道上さんがけっこう詳しく、本の中身を紹介してくださいました。語源って案外興味があるものだし、それに、この手の話題はいま流行りのトリビア風でもあって、ラジオのネタにぴったりかもしれません。そういえば『京都の不思議』のときも発売早々、羽川英樹アナウンサーが「いま電車の中で読んでたのですが、これ面白いですよ」と、読み込んで印をつけた本をわたしの友人に示されたのだとか。友人がさっそく教えてくれたのでした。
 中日新聞京都支局も取材してくださいました。前回、京都本ブームのことで取材を受けていたので、新刊に興味をもっていただいたのだと思います。「京都の情報はもう語り尽くされているかと思っていたのに。語源から京都の歴史や文化に光を当てた本が少ないとは意外です」。
 ほんと、そのとおりなんです。わたしもまったく同感。わたし自身その点が意外で、不思議ネタに書きたいくらいです。まあ、それだけ京都は奥が深いということもできるけれど、しかし京都情報がこれだけ流通しても、表面で目立っている情報は案外、画一的、という気もしてきました。
 
  

(2004年 4月25日記)


『京都語源案内』という本

  桜の開花とひと足遅れで、ようやく本が出来上がりました。『京都語源案内』光村推古書院刊です。本屋さんに並ぶ日もまもなくだと思います。ご笑覧ください。
 文字通り、「ご笑覧」ということばがぴったりの本です。「左ぎっちょ」とか、「さまになる」とか、「泣きべそ」とか、「きちょうめん」とか、「小倉あん」とか、「あみだくじ」とか、そんなことばが実は京都に生まれたのではないか、と推理して、その語源をたどってみました。「語源都市<京都>を歩く」と、本の帯にあります。そうか、京都は語源都市でもあったんだ、というのが今回、本を書き終えての実感です。この<語源都市>ということば、いま気に入っています。<歴史都市>といっても平面的で、単に説明的な響きしかしないのですが、<語源都市>には奥行きがある、その奥をたどってゆきたい誘惑に駆られるのはわたしだけでしょうか。
 日本の都は京都にやってくる前、奈良にあったし、その前にも古代文化があったようです。なのに、なぜ京都が<語源都市>? それは、いまわたしたちが使っている日本語が、そして漢字、カタカナ、ひらがなという文字が、平安時代に成立したことによるのだと思います。その当時、都であった京都、そして、そののちも長らく都であった京都が、必然的に<語源都市>としての性格をもつようになった。こんなふうに考えるのですが、いかがでしょうか。
 
  

(2004年 4月7日記)


春遠からじ

 いつのまにか、春がすぐそこまでやってきているようです。あわただしく日々を過ごしていて相変わらず冬のダウンジャケットを羽織っていたら、ふと周りを見回せば人びとの服装が軽やかになっていました。
 どんな大事件が起ころうが起こるまいが、春はことしもやってくるようですね。いま騒動の渦中にある鳥インフルエンザは、春先の流行り病を象徴しているのかもしれません。これがこの先、氷河期が近づいて、春がやってこない時代がくるかもしれないと思うと、春の足音が感じられるいま、この日々がいとおしくなります。
 わたしの三冊目の本は、4月刊行予定です。タイトルは『京都語源案内』に決まりました。これまで二冊の『京都の不思議』を経て、どうしてもやってみたくなったのが「ことばの不思議」。京都に生まれたことばの語源を切り口にしました。装幀ももう出来上がって、先日見せていただきました。前回同様、装幀家の加藤恒彦さんにお願いしたものですが、シックでとてもいい感じ。イメージはこれまでとずいぶん違います。ああ、これ以上は申せません。出来上がる日をどうぞお楽しみに。
 というわけで、なんとかここまで漕ぎ着けたと思ったら、昨日パソコンが壊れかけました。ひと仕事終えてホッとしたのか、あきらかに過労を訴えています。実は長島さん(野球の、です)が倒れた日の夜、ちょうど原稿の最終校正が終わった日で、私も頭痛がしてめずらしく長々と寝ました。そりゃあパソコンだって過労を訴えたくもなるでしょうよと納得。これまでに大仕事の最終一歩手前でパソコンが壊れた経験があるので、仕事が一段落するまでがまんしてくれたとは、パソコンもなかなかわかってきたなあと思うのでありました。
 
  

(2004年 3月9日記)


広沢池異変

 やっと原稿、書き上げた、とうきうき。それにつきあってくれる友人たちと広沢池方面に出かけました。わたし好きなんです、あのあたりの風景。冬の間は池の水が抜かれていますが、それもまた風情。水が抜かれた直後、そして2ヵ月も過ぎたいまごろと、池の底の表情が微妙に変わっていくのもいいです。その日はいかにも2月らしい寒さで、お天気はよかったはずなのに途中、西の空、つまり池の向こうからわーっと掻き曇り、向こうの山は雪かなあと言ってるまもなく、猛烈な吹雪が池の向こうから迫ってきました。広沢池の吹雪は、池のなかから吹き上げるように、上向きに吹雪くんですね。吹雪の前線が通過していくのを目の当たりにしたのでした。
 雪はしばらくの間だけで、また日が差しはじめる冬の広沢池。雪の様子はいつもと同じで変わらないけれど、池の眺めに異変あり。行ったときから気になって仕方がなかったのでした。池の向こう、右手に見える茅葺きの一軒家に手が加えられており、周辺の護岸が様変わり。その裏手には車が出入りし工事が行われているようで、そういえば木々で覆われていたはずの一帯が、ずいぶん透けて見えるのです。ショックです。大いにショックです。
 あの美しい広沢池の眺めが、どうなってしまうのだろう。何かできるのだろうか。もしご存知の方いらっしゃれば、教えてください。
 
  

(2004年 2月13日の金曜日記)


2004年という年

 気がつくと1月も終わりかけている。新年の更新がいまごろになって、どうもすいません。今年も皆さま、よろしくおねがいいたします。
 でもでも、昨年2003年は、本当に長い長い年でした。『京都の不思議』の一冊目を出してすぐに迎えた昨年のお正月。そのころはまだ、こんなに反響をいただくとは思ってもいなかったのでした。それから私事ではありますが、身近な友人を亡くしました。その友人とともに過ごしたさいごのひと月は、何カ月にも感じられます。これが、長い長い一年だったいちばんの大きな理由だと思います。
 そうこうしているうちに二冊目を書くことになって、あれよあれよといってる間に本屋さんに並んで。一昨年から昨年にかけて、いままで以上にさまざまな出会いをいただき、たくさんのことを教わりながら、2004年という新しい年を迎えました。
 一年が長く感じられるとは、ありがたいことだと思います。わたしは一年の計やら何やらにあまり縁がないほうですが、ここまで生きてくると、限りある時間を自覚するようにはなりました。いまは白紙の2004年が、一年を終えた年末にどのように彩られているのか。新年のおたのしみはこんなところです。 
  

(2004年 1月20日記)

 


2004年 1月20日記〜
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2003年 12月12日記