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灘の酒・伏見の酒以前にあった洛中まぼろしの酒 

五百年前から続いている、
御用達人気とグルメぶり。

 「また、くだらんこと、いうて…」の「くだらん」の由来をご存知だろうか。これは「上る・下る」の「下らない」ということで、もともとの起点は京の都にある。つまり京の都の産物は、全国各地で「下り」「下りもの」と呼ばれて賞賛された。しかし、たとえ都のものでも、各地でありがたがられないものは、都から下っていかない「くだらん」ものだったのである。
 江戸時代、江戸っ子が飲んだ酒の八割以上は「下り」「下りもの」と称された上方の酒だったという。ただし、これらは伏見の酒でも洛中の酒でもなく、当時、名を馳せた伊丹や池田の酒。灘は酒どころとしてまだ登場していない。上方から江戸へ、酒を運ぶためには菱垣廻船と呼ばれる船が用いられ、これがのちの樽廻船、すなわち酒専用の運送船に発展していく。
 上方から江戸に「下る」樽廻船での輸送がふえると、名酒の誉れ高かった伊丹や池田の造り酒屋が、しだいに海の近くの輸送に便利な地に移ってきた。これが酒どころ灘の発祥とされる。いっぽう京都も同様である。伏見から淀川の水運を利用し、大坂から船に積まれるわけだから、洛中の酒造家もまた、伏見に蔵を移すところがふえていた。
 江戸の将軍のお好みは、伊丹の「男山」と「剱菱」だった。何ものにおいても京の都が随一とされたなかで、なぜ酒だけは伊丹や池田の後塵を拝すことになったのだろう。不思議だったが、伊丹の酒の全盛期も長い歴史の一時期のこと。実は、洛中の酒が一世を風靡した時代が、やはりあったのである。
 「松の酒屋や梅壺の柳の酒こそすぐれたれ」と狂歌に詠まれた、「柳の酒」がそれである。下京の五条坊門西洞院、中興四郎衛門という名の酒造家であった。
 室町時代は、造り酒屋が爆発的にふえた時代である。洛中だけで、その数三百四十二軒とも、三百四十七軒ともいわれている。これはすごい数である。しかし数多ある酒の銘柄のなかでも、足利義政や義満ら、将軍が飲む酒は「柳の酒」と決まっていた。そして将軍家御用達の酒と聞けば、公家や上級武士の間で盛んにもてはやされ、とっておきの贈答品として喜ばれたそうだ。値段は普通の酒の二倍はしたというから、五百年前の室町時代も、現代も、まったく変わらないではないか。
 酒はそれまで、陶器の壺で醸造されていたが、最初に樽を使ったのがこの酒であった。樽は造る技術が確かでなければ、せっかく入れても漏れてしまっては台無し。柳の樽は、酒を入れるとその湿り気が木にぬめりをもたせて、すき間をなくし、絶好の酒樽になった。この柳樽が酒樽のはじまりで、「柳の酒」の名はここからきたようだ。また酒の銘柄を表示するレッテルもこの酒が最初。「柳の下に二匹目、三匹目のドジョウを探す」輩が多いのも、いつの時代も同じこと。樽にレッテルを貼ったのは、類似品や偽物対策としてであった。
 御用達やブランド人気には、かれこれ五百年の歴史があるらしい。それに追随する類似品、偽ブランドの横行もまた然り。とはいえ、柳ブランドも江戸時代には影を潜めた。
 「酒は伊丹の醸に非ざれば飲まず、魚は琵琶湖の鮮にあらざれば食わず」とは頼山陽のグルメぶりだそうだが、いつの時代も似たり寄ったりだなあと思うことしきりである。

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