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牛若丸と弁慶が出会ったのは、いまの五条大橋ではない?

洛中碁盤の目の中で、
四条─五条がなぜか広い、その理由。

 五条の大橋といえば、牛若丸と弁慶が出会った場所。「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が…」と歌われるとおり、五条大橋の西詰めには、御所人形風の愛らしい牛若丸と弁慶の石像(面屋庄三作)が建っている。
 もっとも現在は、車の通行量が多い国道一号線のど真ん中。排気ガスに包まれて、牛若丸も弁慶サンも、息苦しそうで申し訳ない。修学旅行生や観光客も、車のなかから眺めては「ああ、ここが有名な」と語り合っているのだろう。
 しかし、牛若丸が弁慶に挑んだ五条の橋は、実はここではなかった。このことを知る人は、京都の人でも意外に少ないのではないだろうか。
 かつて平安京に貫かれた一条から九条までの大路。千年以上経ったいまも、一条から九条までの通りが健在である。ところが五条に限っては、いまの五条通とちがって、現在の松原通が旧の五条通にあたるという。安土桃山時代から江戸初期のころ、松並木が続く道だったことから「五条松原通」と呼ばれだしたのが、いつしか「五条」を略して「松原通」の呼び名になった。そこで、消えてしまった「五条通」の名を復活させようと、六条坊門小路を五条通と改めた。
 そういえば、と、ここでピンときた方は、鋭い。いまの四条─五条間は、他の通りと比べると、ずいぶん広いのである。二条─三条間には、その間に押小路、御池、姉小路の三筋。三条─四条間も同じく、六角、蛸薬師、錦小路の三筋。ところが四条─五条間だけは、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、と五筋もある。しかし松原通が本来の五条通だったとすると、その間に三筋をはさんで、ぴったり合うではないか。地図上で見ても、整然と並んだ洛中碁盤の目の中で四条─五条間だけがなぜか離れている、その理由がここにあったのだ。
 と、まあ、そういうわけで、いまの松原通にかかる「松原橋」が、「旧五条橋」であった。この橋は清水寺の参道にあたるため古くからかけられており、清水さんへお詣りに行くための「清水橋」とも、また清水寺の僧の勧進によってかけられたので「勧進橋」とも呼ばれていた。
 そして牛若丸と弁慶の出会いも、この松原橋といわれている。そう聞いて松原橋を渡ってみれば、真正面に東山三十六峰が美しい稜線を描く、なんとも絵になる眺めである。
 いっぽう、現在の五条通に初めて橋がかけられたのは天正年間(一五七三〜九一)。豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営するにあたって、鴨川に橋を掛けよ、と命じたらしい。なるほど、牛若丸と弁慶の時代には、いまの五条大橋は存在しなかったことになる。

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